注目のお祭り
12月の民俗行事として、大晦日の夜に行われる秋田県の男鹿のナマハゲは有名です。ユネスコ無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」にも認定されています。
「来訪神」とは、正月やお盆など、一年の節目に人間の世界を訪れ、怠け者を戒めたり、魔を祓い幸福をもたらしたりするとされる神々を指し、地域によってその仮面と仮装はさまざまです。
「来訪神:仮面・仮装の神々」に認定されている民俗行事
12月 甑島のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
12月 男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)
1月 能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
旧暦9月 宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)※上野野原地区 旧暦12月下旬
1月 遊佐の小正月行事(山形県遊佐町)
2月 米川の水かぶり(宮城県登米市)
2月 見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)
1月 吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)
旧暦8月 薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)
旧暦7月 悪石島のボゼ(鹿児島県十島村)
旧暦の1月 霧島市の鹿兒島神宮では盛大な初午祭があります。馬を綺麗に飾り立て、背中の鞍には御幣とハッズンという紙の振り太鼓を立て、首に沢山の鈴をつける。馬のまわりに着飾った女性の踊り子がとりまき、三味線、太鼓の囃子に合わせて踊ると馬もシャンシャンと鈴の音を響かせて動きます。牛馬の安全と五穀豊穣を祈る祭りです。
2月 姉神に妹神が新年の挨拶に行くという佐多の御崎祭りは1300年ほどの歴史ある南大隅町の伝統行事です。神輿が、鉾や傘などを従え、笛と太鼓に囃されながら御崎神社から20キロも先の近津宮神社まで2日間をかけて巡幸します。途中に「どんひら坂下り」という難所もあり、重い神輿をひっくり返さぬようバランスを保ちながら下るのはたいへん難しいことです。到着地の近津宮神社では田起こしから収穫までの神事を行うなど、素朴な祭礼ながら佐多岬周辺の人たちで賑わいます。
6月 せっぺとべは文禄4年(1595年)から日吉地域に伝わる「お田植え祭り」です。「せっぺとべ」とは、鹿児島弁で「精一杯跳べ」ということで、若い衆が田の中で円陣を組み、酒を飲み、唄を歌いながら勢いよく飛び跳ねます。この祭りは土をこねらす意味と害虫を踏み潰す意味があり、泥にまみれて今年一年の豊作を祈願します。当日は地域住民や子供会による棒踊り、虚無僧踊りなども奉納され、町は終日活気にあふれます。
姶良市の加治木くも合戦は、島津義弘公が文禄・慶長の役(1592年~1598年)に参戦し、その陣中で兵士を元気づけるために始めたと伝えられる、コガネグモ同士を戦わせる伝統的な昆虫相撲の競技です。当日は小学生から合戦歴50年以上のベテランまで毎年200人近いファイターがエントリーします。
7月 曽我どんの傘焼きは鎌倉時代に源頼朝の富士の巻き狩りを期し、曽我十郎・五郎の兄弟が傘を焼いて松明とし、父河津三郎の敵、工藤祐経の狩屋に忍び込んで首尾よく本懐を遂げたという故事に因んだ行事です。昔、薩摩では「郷中教育」という独特の教育制度があり、子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。その教育の一環として、親への孝を教える「曽我兄弟の話」が用いられたのです。
六月燈とは、旧暦の6月(現在では7月)に鹿児島県内の神社・寺院でそれぞれの日程が定められて行われているお祭りです。県民に「ロッガッドー」の呼び名で親しまれています。薩摩藩第二代藩主の島津光久が、上山寺新照院に観音堂を建立して供養のために燈籠を灯したのを、領民達が見習った事がこの祭りの始まりとされています。しかし、古来から燈明を献じて神仏に祈願する風習があり、これが習合されて、より盛んになったのではないかといわれています。
旧暦の7月 種子島の盆踊りとして横山盆踊りがあります。島津家の家老が遠島になり、愛妾が家老を慕って渡島して二人で住むが、これを知られて家老が死を命じられ、愛妾もともに死を選んだという哀話が伝えられ、これを慰霊するために踊られるようになったという。男の踊り手は麻の着物に大小を指し、カムキという頬かむりをし、女の踊り手も紫頭巾の上から花笠を冠り顔を隠して踊るのが特色となっています。
8月 壮大な作り物の行列が出ることで知られる市来の七夕踊の作り物は張り子で、鹿、虎、牛、鶴が作られる。巨大な張り子の動物の中には人が入って動かします。虎狩りなどの劇的な所作もある楽しい行列芸があります。前踊として作り物の大張子と琉球王、大名、薙刀踊などが列をなし、次に本踊としての太鼓や鉦を持った太鼓踊が続き、ついで後踊として薙刀踊が続きます。
旧暦8月初めの平瀬マンカイの祭りは午後4時頃、夕方の満潮に合わせて祭りを行う。海岸にある小高い二つの岩は、カミヒラセとメーラビヒラセの名があり、メーラビヒラセには集落の神役7、8人が立ち、カミヒラセには白衣のノロたちが立って、太鼓を打ち鳴らし、互いに歌を交わしながら手を振って海の彼方の神々への豊作祈願が行う。それが終わると、浜で八月踊りを踊ります。
旧暦8月 鹿児島県最南端の島、与論島の与論十五夜踊りは、室町時代の永禄四年(1561年)に創作され、それ以後430余年踊り継がれてきました。この踊りは、一番組と二番組で構成され、一番組の踊り言葉は室町時代の狂言等から取材し、 その踊り方は本土風のもので寸劇仕立ての踊りです。装束は竹と紙で作った大きな仮面を用いるのが特徴です。二番組の踊り言葉は、与論島をはじめ奄美や琉球諸島から取材し、その踊り方は琉球風の手踊り・扇踊りを取り入れています。装束は、頭にシュパという長いスカーフのような頭巾を巻いて顔面を覆います。
9月の川内大綱引は約3000人の上半身裸にサラシを巻いた「ハダカ」と呼ばれる男たちが、互いに、長さ365メートルの大綱を引き合います。また、中央付近では、敵陣の引き隊を邪魔するため、そして、自陣の引き隊を守るため、両陣営の「押し隊」同士が、体と体を激しくぶつけ合い、攻防する勇壮な姿を見ることができます。
指宿温泉のいたる所に湧き出る豊富な温泉の恵みに感謝する祭りとして指宿温泉祭があります。花火大会や、鹿児島の民謡「ハンヤ節」に合わせてグループで踊る「指宿ハンヤ踊り」など、指宿の街が祭り一色になりますが、祭りの華は何と言っても神輿渡御です。湯権現神社から出発し、お囃子に合わせて「あんりゃ どした」という迫力のある掛け声を掛け合いながら、九州では珍しい担ぎ方で進みます。神輿渡御は市内外の老若男女問わず誰でも参加が可能です。
旧暦の9月 奄美大島の南、加計呂麻島(かけろまじま)に伝わる諸鈍シバヤは、源平の戦いに敗れて落ちのびて来た平資盛(たいらのすけもり)一行が、土地の人々と交流を深めるために伝えたのが始まりと伝承されています。
紙製の仮面カビディラをつけ、狂言風にさまざまの芸能演じる、本土や沖縄の芸能が取り込まれた珍しい芸能です。即興的狂言、人形劇を含めて現在11演目が受け継がれ、諸鈍集落の大屯神社で披露されています。
10月 肝付町の高山やぶさめ祭は射手は中学生が務め、毎年変わります。馬に乗るところから始まり、約1ヵ月の練習を経て本番を迎えます。狩衣装束にあやい笠を身にまとい、弓受けの儀により神の使いとなった射手が馬場を疾走する姿は圧巻です。
日置市の妙円寺は島津義弘の菩提寺です。妙円寺詣りは、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍に与していた義弘が、ようように敵前突破して帰国をした。その義弘の菩提を弔って参拝するのがこの祭りです。当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から多くの人が訪れます。
11月 鹿児島市の繁華街、天文館を中心に行われる、昭和24年に始まった南九州最大のお祭りおはら祭は、2日の夜に「夜まつり」が、3日の日中に「本まつり」が行われます。鹿児島民謡「おはら節」「鹿児島ハンヤ節」「渋谷音頭」にあわせて踊り連が練り踊る総踊りのほか、おごじょ太鼓の競演が2日間にわたり繰り広げられ、秋の鹿児島を盛り上げます。夜まつりでは、かごしま親善大使の任命式、本まつりではマーチング、ダンス「オハラ21」なども催されます。
弥五郎どん祭りは、曽於市大隅の岩川八幡神社の大祭です。弥五郎どんは、身の丈4.85メートルの大男で25反もの梅染めの衣を身に纏い、ギョロリまなこに太い眉、大小2刀を腰に携えた勇ましい姿です。一説によると、弥五郎どんは武内宿弥の化身あるいは隼人の酋長であると言われる。子供たちに引かれた弥五郎どんが市街地を練り歩き、沿道は弥五郎どんの巨体を一目見ようと、県内外からたくさんの見物客が訪れて終日たいへん賑わいます。
大晦日の日、俗に「春くる鬼」と呼ばれる甑島(こしきじま)のトシドンは鼻の高い異形の面をつけ、蓑笠で変装した者が家々に現れ、さまざまに子供を諭す。さらに子供を四つん這いさせて、その背中に大きな餅を乗せる。この餅を「としもち」と呼ぶが、これは新年の丸い玉(魂)で、今日の「お年玉」の原形を示しています。
鹿児島県の花は ミヤマキリシマ
鹿児島県の鳥は ルリカケス
鹿児島県の木は カイコウズ と クスノキ
(鹿児島県の公式ホームページ)