注目のお祭り
12月の民俗行事として、大晦日の夜に行われる秋田県の男鹿のナマハゲは有名です。ユネスコ無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」にも認定されています。
「来訪神」とは、正月やお盆など、一年の節目に人間の世界を訪れ、怠け者を戒めたり、魔を祓い幸福をもたらしたりするとされる神々を指し、地域によってその仮面と仮装はさまざまです。
「来訪神:仮面・仮装の神々」に認定されている民俗行事
12月 甑島のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
12月 男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)
1月 能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
旧暦9月 宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)※上野野原地区 旧暦12月下旬
1月 遊佐の小正月行事(山形県遊佐町)
2月 米川の水かぶり(宮城県登米市)
2月 見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)
1月 吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)
旧暦8月 薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)
旧暦7月 悪石島のボゼ(鹿児島県十島村)
正月に「えべっさん」の名で親しまれる京都ゑびす神社の十日ゑびす大祭は日本三大ゑびす祭のひとつで、縁起物を求める人で大いに賑わいます。商売繁昌・家運隆盛の吉兆笹などが授与され、神楽殿では終夜、神楽の奉納が行われる。
法界寺は安産と授乳に霊験ありと女性の信仰が厚いお寺です。法界寺裸踊りは修正会の結願行事で、元日より14日間、本堂の薬師堂において五穀豊穣と天下太平を祈り、結願日にあたる1月14日の夜、阿弥陀堂の広縁で、精進潔斎した少年・青壮年の信徒が下帯のみの裸となり、願いを込めて頂礼(ちょうらい)という言葉を連呼しながら踊りを奉納します。踊りに用いられた下帯は妊婦の腹帯に良いとして厚い信仰を集めています。
三十三間堂で行われる楊枝のお加持と弓引き初めの、楊枝(やなぎ)のお加持はインド伝来で平安時代からの伝統を持つ法要。儀式では聖樹とされる「楊枝」で観音様に祈願した法水を参拝者に注いで無病息災を願うもので、特に頭痛に効くと伝えられます。慶長年間(1600年頃)に始まったとされる「通し矢」にちなんで、弓道全国大会も開催され、男女あわせて約2000人が参加します。なかでも新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の冬の風物詩のひとつです。
2月 京都ではたくさんの寺社が節分行事を行いますが、吉田神社節分祭では節分当日とその前日に約800店の屋台露店が立ち並びます。節分祭の追儺式は古式に則って行われ、赤、青、黄色の鬼を、邪気を見抜く「方相氏(ほうそうし)」が矛と盾を手に追い、神職らが桃の木の弓で葦(あし)の矢を放って鬼を払います。廬山寺の追儺式鬼法楽は、松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が退治される古儀があります。「鬼おどり」の通称で知られ、独特のおもしろさがあり親しまれています。
壬生大念佛狂言の始まりは、鎌倉時代に勧善懲悪、因果応報という仏の教えを分かりやすく伝えようとしたものです。すべての演者が仮面をつける無言劇で、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせて身振り手振りで演じます。衣装や道具も京の伝統工芸が活かされたものが多く、思わず見入ってしまいます。
上賀茂神社の燃灯祭は、平安時代に宮中の年中行事として行われていた「子(ね)の日の遊び」を神事化したもので、神社の北に広がる御阿礼(みあれ)野と呼ばれる場所に出て小松(新芽の松)を根引きし、それに玉箒草(燃灯草)を添えて神前に供え、春の訪れを奉告します。
「五大力さん」として親しまれている五大力尊仁王会は不動明王などの五大明王の力を授かり、国の平和や国民の幸福を願う行事です。修験山伏による柴灯大護摩供が修行され、そのあと、金堂前では餅上げ力奉納が行われ、力自慢が名乗りを上げる。女性は90キロ、男性は150キロの巨大な鏡餅を持ち上げてその力を奉納し、無病息災・身体堅固を祈ります。また、五大力明王のお札もなかなかの評判で、京都の町屋の出入り口に貼られています。
北野天満宮の御祭神である菅原道真の祥月命日にあたる2月25日に斎行される梅花祭は、900年以上も前から執り行われてきました。梅花祭ではお米を蒸し、大小2つの台に盛った大飯・小飯や白梅・紅梅の小枝を挿した紙立(こうだて)という特別な神饌が、神前に供えられ道真の遺徳を偲びます。境内では上七軒の舞妓さんによる梅花祭野点大茶湯が行われ、また、毎月の縁日「天神市」の日でもあり、多くの人で賑わいます。
3月 貴船神社は平安遷都以来雨乞いの社として有名で、その雨乞い祭りは、まず、神饌として洗米・酒・魚・塩水・果物・昆布・野菜が供えられ、続いてお祓いや祝詞の奏上が行われます。次いで2人の神職が桶をそれぞれ持ち本殿内で向き合うと、鉦と鈴・太鼓が鳴らされ本殿入り口まで水を掛け合いながら移動します。この雨乞い祭りの効果、大いにあるといわれています。
嵯峨お松明式は清涼寺(釈迦堂)境内で行われる柱松行事です。お松明式はお釈迦様が荼毘に付される様子を再現した行事で、高さ7メートルの三基の松明が立てられ、それぞれを早稲、中稲、晩稲に見立て、その火勢によって、その年の農作物の豊凶を占います。涅槃会(ねはんえ)と嵯峨大念仏狂言も行われます。
4月になると京都花街のおどりが始まります。上七軒の北野をどりからスタートして、祇園甲部の都をどり、宮川町の京おどりと続いて上演されます。5月には先斗町の鴨川をどりが上演されます。目の前で繰り広げられる舞踊の素晴らしさはもちろんですが、芸妓や舞妓がまとう華麗な衣裳も見所のひとつで、それぞれの花街で舞踊の流派や演目が異なるので、期間中、各所をめぐりじっくりと堪能するのもまた楽しみの一つです。
桜舞い散る季節に行われるやすらい祭「やすらい花」の唄に合わせ、赤い衣装をまとい、赤毛や黒毛の赤熊をつけた大鬼・小鬼の踊り手は太鼓・鉦・羯鼓(かっこ)を打ち鳴らして踊り狂うが、その間に脇に立てられた風流傘の下に人々が入れかわり立ちかわり入り込む。生花で飾った傘の下に立つと悪疫にかからないとされているからです。
神幸祭(おいで)で御旅所に移った神興が、本社に帰る松尾大社 還幸祭は神輿渡御祭の中心で、今でも氏子中で「おまつり」と言えば、還幸祭(おかえり)を意味します。本社の本殿、楼門、社殿と各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るので、古くから「葵祭」とも言われてきました。賀茂両社の「葵祭」は有名ですが、秦氏との関係の深い松尾大社や伏見稲荷大社にも同様の伝統が存在しています。
5月 勝運の神として名を知られる藤森神社の藤森祭は、古くは「深草祭」と呼ばれていました。神幸祭では江戸時代に氏子が財力を注いで造った3基の神輿や武者行列が地域を練り歩きますが、何といっても境内の馬場で披露される「駈馬(かけうま)神事」が圧巻で、命懸けの馬術を奉納し一年の安全を祈願します。疾駆する馬上での「手綱くぐり」「逆立ち」「藤下がり」などの人馬一体のアクロバット的な妙技に思わず見入ってしまいます。
上賀茂神社の加茂競馬(かもくらべうま)とは葵祭に先立ち、5月5日に上賀茂神社で行われる儀式競馬です。「くらべうま」とは二頭の馬が競うもので、複数の馬が競うものを「けいば」と呼びます。乗尻(のりじり 騎手 )は舞楽装束をつけ、右方(うかた)と左方(さかた)が一対となって馬を走らせ、早さを競います。1馬身の差をつけて2頭の馬を走らせ、その差が広がれば前の馬、縮まれば後の馬の勝利となります。
青葉山の中腹にある松尾寺は、中国から渡来した唐の僧・威光上人が青葉山の山中で馬頭観音を感得して、和銅元年(708年)に草庵を結んで馬頭観音像を安置したのが起こりと伝えられている。松尾寺の仏舞は本堂内の舞台で、頭部がすっぽり入る大日如来、釈迦如来、阿弥如来の光背のついた金色の仏面をそれぞれ2人ずつ6人の舞人がかぶり、竜笛・ひちりき・羯鼓・太鼓の伴奏で、越天楽の曲に合わせて典雅な舞を繰り返すものです。
車折神社の祭礼、三船祭は昌泰元年に宇多天皇が嵐山で船遊びをされたのが始まりで、「三船」は白河天皇が大堰川行幸で「漢詩」「和歌」「奏楽」の三隻の船を浮かべたことに由来します。御座船を先頭に龍頭船、鷁首船に続いて各供奉船など総計20余の船が上流に向かって発船し、約2時間に亘って御座船に対して奉納行事等を行いながら船遊びを行います。
薫風が心地良い5月、上賀茂神社と下賀茂神社の例祭、葵祭りの名前の由来は社殿の御簾や祭人の衣冠、牛車などに葵を付けるところから出たものです。京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう行列は、斎王代の腰輿(およよ)を含む総勢500人を超え、長さは1キロにも及びます。
6月 鞍馬竹伐り会は、鞍馬寺本堂で行われる蓮華会(れんげえ)の法会に付随する行事です。本堂前で、大蛇に見立てた、根付きの細い竹(雌竹)と根のない太い竹(雄竹)の2種の竹4本を、近江座と丹波座に分かれて、三段に断ち伐る遅速を競います。竹を切るのは、七仲間と呼ばれる鞍馬の住民組織のうち大惣(おおぞう)仲間の人々で、五条袈裟(ごじょうげさ)を頭に巻き付けた、いわゆる僧兵姿で登場します。伐る速さにより、その年の農作物の吉凶を占う行事です。
7月 嵐山での貴族の船遊びは平安の昔から行われていました。嵐山の渡月橋上流一帯を大堰川と言いますが、その大堰川で行われる嵐山の鵜飼は夏の嵐山の風物詩で、清和天皇が宮廷鵜飼をご覧になったことから始まったといわれています。観光屋形船に乗れば、かがり火の焚かれた鵜舟のすぐ近くで、鵜が漁をする様子や鵜匠の手綱さばきも近くで見る事が出来ます。宇治川の鵜飼も平安時代からの歴史を持っています。平安時代の女流日記「蜻蛉日記」には、かがり火を焚いた数多くの鵜舟が鮎を捕る様子が記録されています。現在では宇治川の鵜飼は、宇治の夏の風物詩となっています。宇治川では2人の女性鵜匠が活躍していることも注目されています。
祇園祭は京都の人々にとってはコンコンチキチン、コンチキチンの祇園囃子とともに7月の一カ月にわたる長い夏の祭りですが、一般の祭り見物の人には16日の宵山から17日の山鉾の巡行が最大の見どころです。その華麗さと祭りの熱気は、どの祭りも超える、あらゆる面で日本の代表的な祭りです。
葵祭り、祇園祭とともに京都三大祭とされている時代祭は、10月に行われ、祭りの歴史は百年ほどしか経っていない新しい祭りで、奈良時代から明治に至る一千余年の風俗を模した行列が有名です。
丹後地域は古くから文殊菩薩への信仰があり、文殊堂出船祭は天橋立に船を浮かべて約350本の松明を灯し、船を組んだ舞台の上で「九世戸縁起」を模した劇が上演される。太鼓に合わせて金銀2頭の龍が舞い、文殊菩薩の説法と龍たちのやり取りが演じられ、クライマックスには打上げ花火があります。
茅葺きの山門から本堂への道の苔とつつじの美しい寺、安楽寺を江戸末期に復興された真空益随上人が、本尊阿弥陀如来から「夏の土用の頃に鹿ヶ谷かぼちゃを振る舞えば中風にならない」という霊告を受けて、鹿ヶ谷かぼちゃを仏前に供えて供養したのが鹿ヶ谷カボチャ供養の始まりです。参拝者に煮炊きした鹿ヶ谷かぼちゃが振る舞われます(拝観料のみでカボチャは無料)。京の伝統野菜である鹿ヶ谷かぼちゃはひょうたんの形をしています。
舟屋が並ぶ独特の風景で知られている伊根町で、大祭の時には「海の祇園祭」とも呼ばれている伊根祭は祭礼船が仕立てられ、社前で稚児舞、太刀振り、神楽が奉納されるが、大祭になると船屋台行事が行われる。和船七隻を横に並べ、これに屋台を組み立てて歌舞伎狂言を演じるという珍しい形態を伝えている祭りです。
下鴨神社 みたらし祭の日、御手洗池から湧き出る水に足を漬けると脚気にかからず、子供のひきつけにも効能があるとされ、朝から大勢の人が膝まで水に入りにきて賑わいをみせます。夜は神灯が灯り幻想的な風景が広がります。涼を求める人も多く、参道には露店も並び、みたらし団子をはじめ、京都の老舗名店が出店します。
伏見の産土神として親しまれる御香宮神社では毎年7月31日、夏の病気除けを祈るという夏越祓(なごしのはらえ)の神事、茅の輪(ちのわ)神事が行われます。境内には直径2メートルほどの茅の輪が飾られ、神事のあと神職に続いて参拝者も茅の輪をくぐり、無病息災を祈願します。環境省認定の名水百選の一つに指定されています。
京都市北西部にある標高924メートルの愛宕山。その頂上に鎮座するのが愛宕神社で、千日詣りは約4キロの登山道を登ってお参りします。7月31日夜から8月1日の早朝にかけて参拝すると千日分のご利益があるとされ、毎年多くの参拝者が頂上を目指します。防火・鎮火の神として信仰され「火迺要鎮(ひのようじん)」のお札を求める人で夜通しにぎわいます。
8月 六道珍皇寺のあるこの地は、平安時代は墓所の鳥辺山の麓でその入口付近に位置したことから「六道の辻」と呼ばれ、冥界との境とも信じられていた。六道珍皇寺 六道まいりは精霊を迎える行事です。境内にある迎え鐘でこの世に迎えられた精霊は境内で売られている高野槇に宿り、それぞれの家へ向かうそうです。その後、16日の五山の送り火で精霊は送られ、京都の夏は終わると言われます。
福知山ドッコイセまつりは明智光秀が丹波平定をして福知山城築城の際、領民などが石材や木材を運ぶ時に「ドッコイセ」と手振り足振り面白く唄いだしたのが起源です。威勢の良い掛け声とともに各種団体や市民たちが踊りながら練り歩き一般の人も参加できる祭りです。
大谷祖廟は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の墓所で、東大谷万灯会は例年8月14日から16日に行われています。東大谷万灯会では大谷墓地へ夜間の墓参ができるようにと、幼稚園・保育園の園児が作画したこども提灯など大小約1万個の提灯が境内に吊るされます。なお東大谷万灯会では仏典童話の紙芝居や万灯会お盆法要(お勤め・法話)も行われます。
洛北の山村「花背」に伝わる送り火の祭り花脊の松上げは、火伏せの神を祀る愛宕神社への信仰とお盆の送り火が結びついたと考えられています。河原一帯の約千本の松明に徐々に点火して、高さ20メートルの大傘に向かってその松明を投げ上げ入れ、大傘に火をつけます。燃え上がった大笠は引き倒されて、火の祭典は壮観なクライマックスを迎えます。
盆の送り火として全国的に知られている大文字五山送り火があります。「大文字」、「松ケ崎妙法」、「船形万灯籠」、「左大文字」、「鳥居形松明」の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)と呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされます。
嵐山の渡月橋東詰で行われる嵐山灯籠流しは、例年8月16日に行われています。戦後すぐの昭和24年から嵯峨一帯の寺院などでつくる嵯峨仏徒連盟が、戦没者の霊を慰めるために始めました。先祖供養の灯籠が炎をゆらめかせながら暗い川面を次々と流れていく幻想的で美しい情景ですが、この灯篭流しと同じ時間に、先祖の霊を浄土に送る鳥居形の五山送り火も見ることができます。
宮津燈籠流しは、宮津藩主・京極高広の時から 城下の人々が盆の精霊送りとして海へ燈籠を流した事が始まりと言われていますが、大正13年(1924年)に現在の形となりました。精霊船と約一万個の追っ掛け燈籠が海面を漂う姿は、誰もが見とれる幻想的な情景です。燈籠が流され始めた後、五彩七彩の花火が大空にはじけ、海と空が一体となる海上スターマインでクライマックスを迎えます。また、陸では宮津おどりが、ゆく夏を惜しむかのように踊られます。
六地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に迷い苦しむ衆生を救済する菩薩のことで、「お地蔵さん」といえば身近に感じられます。京都では、8月22日・23日の両日に、都の入口(旧街道)六ヵ所にあるお地蔵さんを巡拝して、家内安全、無病息災を祈願する六地蔵巡りが行われます。六つの地蔵尊は 伏見地蔵・鳥羽地蔵・桂地蔵・常盤地蔵・鞍馬口地蔵・山科地蔵 です。
京都市左京区久多で毎年8月24日の夜に行われる久多の花笠踊は灯籠踊です。花笠を手に持ち,太鼓に合わせて歌い踊るもので,室町末期ごろに流行した風流踊の面影を残しています。歌は、室町小歌の流れを汲むもので、130番余りの歌の詞章が残されている。踊りの主役となる花笠は村の男性が集って精巧な造花を作る。四角の行灯に六角の台を組み合わせたものに布をたらし、精巧な造花で飾り立て装いをこらした灯籠です。
六斎念仏は平安時代に空也上人が鉢を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えながら托鉢をした踊念仏(おどりねんぶつ)が始まりとされています。後に風流化し、能や歌舞伎などを取り入れ芸能化した芸能系六斎と念仏踊を主とする念仏六斎系の二つの系統に分かれて現在に伝わっています。主な六斎念仏として12の六斎念仏保存会があります。
化野は古くより鳥辺野などと並ぶ葬送の地です。化野念仏寺千灯供養は例年8月の最終土・日曜日に行われています。千灯供養では先ず地蔵堂前で法要が行われ、その後、賽の河原に模した西院(さい)の河原に祀られている数千体の無縁仏(石塔・石仏)にロウソクを灯して供養します。なお千灯供養は明治時代に始まった行事です。
9月9日は古来宮中などで行われた五節句のひとつ・重陽の節句にあたります。上賀茂神社の重陽神事と烏相撲では本殿に菊花を供えて無病息災を祈願した後、境内の立砂前で烏相撲が奉納されます。白い装束を纏った刀祢(とね)と呼ばれる所役が立砂前で「カーカーカー」「コーコーコー」と烏の鳴きまねや烏飛びの所作を行った後、児童による相撲の取り組みが奉納されます。また、この日に菊酒を飲むと災厄から逃れるといわれていて、当日は菊酒の無料接待があります。
石清水祭と賀茂祭(葵祭)、奈良・春日大社の春日祭の三つを三大勅祭といいます。勅祭とは神社に天皇の使者(勅使)が派遣されて行われる祭りのことです。石清水祭は9月15日の午前2時に山上の本殿において鳳輦三基に石清水八幡宮の祭神である三座の神霊を奉遷する儀式から始まり、3時過ぎに鳳輦は本殿を出発、500余人もの神人(じにん)と呼ばれるお供の列を従え、松明と提灯の明かりを頼りに山を下ります。男山山上の御本殿から山麓の頓宮へとお下りになる「神幸行列」、徐々に空が明け行く静寂の中で斎行される「奉幣の儀」は、まさに平安の王朝絵巻を見ているかのようで、大変優雅なものです。
10月 京都の秋の祭の中でも最も早いお祭北野天満宮 ずいき祭(瑞饋祭)は里芋の茎である「芋苗英(いもずいき)」で御神輿の屋根を葺くことからきている。このほか御輿の各所が穀物や蔬菜・湯葉・麩などの乾物類で装飾され、新穀で毎年異なった「人物花鳥獣類」も飾りつけられます。
御香宮 神幸祭は「伏見祭」といわれる伏見区の大祭です。お迎え提灯として、各町内より趣向を凝らした室町時代の風流傘の伝統を伝える「花傘」が神社に参拝する「花傘総参宮」が有名です。祭の中心は神輿渡御で、今は担がれていませんが徳川家康の孫娘、千姫の初誕生祝いに奉納された「千姫神輿」も公開されます。この祭の間、境内には百数十軒の露店が並び昼夜を問わず賑わいます。
祇園社の新宮として創建された粟田神社の悪疫退散を願う粟田祭は神社最大の祭礼行事です。初日は「出御祭(おいでまつり)」、2日目の「夜渡り神事」では巨大な灯籠の山車「粟田大燈呂」が何基も連なり氏子地域を練り歩きます。3日目の「神幸祭」は神輿渡御の先導を務める、祇園祭の山鉾の原型といわれる18基の剣鉾の巡行と神輿渡御が行われます。
建勲神社は、明治2年明治天皇が織田信長を御祭神に創建した神社です。建勲神社では、毎年信長が初めて入洛した10月19日に船岡大祭が行われます。信長が好んで舞ったと伝えられている仕舞「敦盛」や舞楽が奉納され、年によっては宝物の展示や火縄銃演武の奉納などが行われます。
東山泉涌寺 即成院の二十五菩薩ねり供養は、阿弥陀如来と二十五菩薩を祀る寺院で行われる、江戸時代から続く伝統行事です。本堂を極楽浄土、地蔵堂を現世に見立て、阿弥陀仏に従う、金色面の二十五菩薩が衆生を極楽浄土へと導きます。掛け橋には、五色の雲を表す布が垂れ、笙や龍笛を奏でる楽人や色鮮やかな衣裳をまとった稚児たちが行列に彩りを添えます。
左京区の由岐神社で行われる鞍馬の火祭の青年たちが燃えさかる大松明を担いで「サイレイ、サイリョウ」を繰り返して囃しながら集落を練り歩く様子や、「神輿落とし」と称する神輿が石段を駆け下りる姿が炎に浮かび上がる様は壮観で、人気のある祭りです。
11月 神泉苑に伝わる神泉苑狂言はもとは壬生狂言から分化したものですが、今は神泉苑狂言として続けられています。内容や形態も壬生狂言とほぼ同じで、鰐口、笛、太鼓の囃子に合わせた、念仏の妙理と勧善懲悪、因果応報の道理をわかりやすく、身振り手まねで表現する無言劇で、演目は30番あります。
京都盆地の西部に拠点を置いた古代豪族・秦氏が一族の氏神として信仰した松尾大社の上卯祭は11月最初の上の卯の日に行われます。卯の字は甘酒を意味するともいわれ、古来より酒造りは卯の日にはじめる慣わしがあり、全国の和洋酒、味噌醤油の醸造業者などが集まり、醸造安全・豊醸、並びに業務繁栄・商売繁盛・家内安全などを祈願する祭礼です。なお上卯祭では大蔵流茂山社中による狂言・福の神が奉納されます。
伏見稲荷大社 火焚祭は五穀豊穣を祈願し、春の田植えの時に山から迎えた稲荷大神を、秋の収穫の後、感謝して再び炎とともに山に送るために、三基の火床を設け神田で採れた稲のわらを燃やし、信者等から奉納された火焚串(願い事、名前、年齢が書かれた幅約2センチ、長さ約25センチの串)を焚き上げ、宮司以下神職をはじめ参列者一同が大祓詞を奉唱して、罪障消滅・万福招来を祈願します。 夕刻には本殿前庭上で雅楽の調べに乗せた古雅な御神楽が行われます。
平安貴族がこよなく愛した嵐山や小倉山のもみじの美しさを讃え、嵐山地域の守護神である蔵王権現に感謝する行事として嵐山もみじ祭が開催されます。渡月橋上流の大堰川(桂川)に天龍寺船・野宮船・筝曲小督船・今様船・嵯峨大念仏狂言船などの船を浮かべて伝統芸能が披露され、河原では島原太夫のお練りや狂言など数々のイベントが行われます。
12月 京都の師走の行事といえば大根炊きですが、代表的なのが千本釈迦堂の大根炊きです。大根焚きは、鎌倉時代に茲禅上人が大根の切り口に梵字を書いて魔除けとしたのが始まりです。梵字を書いた大根を加持祈祷した後、切り分けて炊き込んでいます。古くから諸病除けに良いと信じられてきた大根ですが、無事の越年を願い、京都の人々は寒空のなか出かけて行きます。
大晦日の日に行われるをけら詣りとは、京都祇園の八坂神社に参詣して境内にある「をけら灯籠」から吉兆縄に「をけら火」を移し、火が消えないように縄を短く持ってくるくる回しながら帰ります。 この新しいをけら火で、雑煮を煮ると、疫病にかからぬ効果があるといわれています。
京都府の花は しだれ桜
京都府の鳥は オオミズナギドリ
京都府の木は 北山杉
京都府の草花は 嵯峨ぎく と なでしこ
(京都府の公式ホームページ)