日本列島のほぼ中央に位置する京都府。北の丹後地方は日本海に面し、南北に細長い京都府は、中央部の丹波山地を境に、日本海型気候と内陸型気候に分かれます。
京都に平安京が遷都されてから政治、文化、宗教の中心地として大いに栄え、さまざまな文化と物資が流入。それらが公家や武家、僧侶といった地元の文化と交わり、現在の京都府の伝統を築いています。
正月に「えべっさん」の名で親しまれる京都ゑびす神社の十日ゑびす大祭は日本三大ゑびす祭のひとつで、縁起物を求める人で大いに賑わいます。商売繁昌・家運隆盛の吉兆笹などが授与され、神楽殿では終夜、神楽の奉納が行われる。
法界寺は安産と授乳に霊験ありと女性の信仰が厚いお寺です。法界寺裸踊りは修正会の結願行事で、元日より14日間、本堂の薬師堂において五穀豊穣と天下太平を祈り、結願日にあたる1月14日の夜、阿弥陀堂の広縁で、精進潔斎した少年・青壮年の信徒が下帯のみの裸となり、願いを込めて頂礼(ちょうらい)という言葉を連呼しながら踊りを奉納します。踊りに用いられた下帯は妊婦の腹帯に良いとして厚い信仰を集めています。
2月 大念佛会 壬生狂言で行われる壬生狂言の始まりは、鎌倉時代に勧善懲悪、因果応報という仏の教えを分かりやすく伝えようとしたものです。すべての演者が仮面をつける無言劇で、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせて身振り手振りで演じます。衣装や道具も京の伝統工芸が活かされたものが多く、思わず見入ってしまいます。
上賀茂神社の燃灯祭は、平安時代に宮中の年中行事として行われていた「子(ね)の日の遊び」を神事化したもので、神社の北に広がる御阿礼(みあれ)野と呼ばれる場所に出て小松(新芽の松)を根引きし、それに玉箒草(燃灯草)を添えて神前に供え、春の訪れを奉告します。
「五大力さん」として親しまれている五大力尊仁王会は不動明王などの五大明王の力を授かり、国の平和や国民の幸福を願う行事です。修験山伏による柴灯大護摩供が修行され、そのあと、金堂前では餅上げ力奉納が行われ、力自慢が名乗りを上げる。女性は90キロ、男性は150キロの巨大な鏡餅を持ち上げてその力を奉納し、無病息災・身体堅固を祈ります。また、五大力明王のお札もなかなかの評判で、京都の町屋の出入り口に貼られています。
3月 貴船神社は平安遷都以来雨乞いの社として有名で、その雨乞い祭りは、まず、神饌として洗米・酒・魚・塩水・果物・昆布・野菜が供えられ、続いてお祓いや祝詞の奏上が行われます。次いで2人の神職が桶をそれぞれ持ち本殿内で向き合うと、鉦と鈴・太鼓が鳴らされ本殿入り口まで水を掛け合いながら移動します。この雨乞い祭りの効果、大いにあるといわれています。
嵯峨お松明式は清涼寺(釈迦堂)境内で行われる柱松行事です。お松明式はお釈迦様が荼毘に付される様子を再現した行事で、高さ7メートルの三基の松明が立てられ、それぞれを早稲、中稲、晩稲に見立て、その火勢によって、その年の農作物の豊凶を占います。涅槃会(ねはんえ)と嵯峨大念仏狂言も行われます。
4月 桜舞い散る季節に行われるやすらい祭「やすらい花」の唄に合わせ、赤い衣装をまとい、赤毛や黒毛の赤熊をつけた大鬼・小鬼の踊り手は太鼓・鉦・羯鼓(かっこ)を打ち鳴らして踊り狂うが、その間に脇に立てられた風流傘の下に人々が入れかわり立ちかわり入り込む。生花で飾った傘の下に立つと悪疫にかからないとされているからです。
神幸祭(おいで)で御旅所に移った神興が、本社に帰る松尾大社 還幸祭は神輿渡御祭の中心で、今でも氏子中で「おまつり」と言えば、還幸祭(おかえり)を意味します。本社の本殿、楼門、社殿と各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るので、古くから「葵祭」とも言われてきました。賀茂両社の「葵祭」は有名ですが、秦氏との関係の深い松尾大社や伏見稲荷大社にも同様の伝統が存在しています。
上賀茂神社の加茂競馬(かもくらべうま)とは葵祭に先立ち、5月5日に上賀茂神社で行われる儀式競馬です。「くらべうま」とは二頭の馬が競うもので、複数の馬が競うものを「けいば」と呼びます。乗尻(のりじり 騎手 )は舞楽装束をつけ、右方(うかた)と左方(さかた)が一対となって馬を走らせ、早さを競います。1馬身の差をつけて2頭の馬を走らせ、その差が広がれば前の馬、縮まれば後の馬の勝利となります。
青葉山の中腹にある松尾寺は、中国から渡来した唐の僧・威光上人が青葉山の山中で馬頭観音を感得して、和銅元年(708年)に草庵を結んで馬頭観音像を安置したのが起こりと伝えられている。松尾寺の仏舞は本堂内の舞台で、頭部がすっぽり入る大日如来、釈迦如来、阿弥如来の光背のついた金色の仏面をそれぞれ2人ずつ6人の舞人がかぶり、竜笛・ひちりき・羯鼓・太鼓の伴奏で、越天楽の曲に合わせて典雅な舞を繰り返すものです。
車折神社の祭礼、三船祭は昌泰元年に宇多天皇が嵐山で船遊びをされたのが始まりで、「三船」は白河天皇が大堰川行幸で「漢詩」「和歌」「奏楽」の三隻の船を浮かべたことに由来します。御座船を先頭に龍頭船、鷁首船に続いて各供奉船など総計20余の船が上流に向かって発船し、約2時間に亘って御座船に対して奉納行事等を行いながら船遊びを行います。
薫風が心地良い5月、上賀茂神社と下賀茂神社の例祭、葵祭りの名前の由来は社殿の御簾や祭人の衣冠、牛車などに葵を付けるところから出たものです。京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう行列は、斎王代の腰輿(およよ)を含む総勢500人を超え、長さは1キロにも及びます。
祇園祭は京都の人々にとってはコンコンチキチン、コンチキチンの祇園囃子とともに7月の一カ月にわたる長い夏の祭りですが、一般の祭り見物の人には16日の宵山から17日の山鉾の巡行が最大の見どころです。その華麗さと祭りの熱気は、どの祭りも超える、あらゆる面で日本の代表的な祭りです。
葵祭り、祇園祭とともに京都三大祭とされている時代祭は、10月に行われ、祭りの歴史は百年ほどしか経っていない新しい祭りで、奈良時代から明治に至る一千余年の風俗を模した行列が有名です。
7月 丹後地域は古くから文殊菩薩への信仰があり、文殊堂出船祭は天橋立に船を浮かべて約350本の松明を灯し、船を組んだ舞台の上で「九世戸縁起」を模した劇が上演される。太鼓に合わせて金銀2頭の龍が舞い、文殊菩薩の説法と龍たちのやり取りが演じられ、クライマックスには打上げ花火があります。
舟屋が並ぶ独特の風景で知られている伊根町で、大祭の時には「海の祇園祭」とも呼ばれている伊根祭は祭礼船が仕立てられ、社前で稚児舞、太刀振り、神楽が奉納されるが、大祭になると船屋台行事が行われる。和船七隻を横に並べ、これに屋台を組み立てて歌舞伎狂言を演じるという珍しい形態を伝えている祭りです。
8月 福知山ドッコイセまつりは明智光秀が丹波平定をして福知山城築城の際、領民などが石材や木材を運ぶ時に「ドッコイセ」と手振り足振り面白く唄いだしたのが起源です。威勢の良い掛け声とともに各種団体や市民たちが踊りながら練り歩き一般の人も参加できる祭りです。
盆の送り火として全国的に知られている大文字五山送り火があります。「大文字」、「松ケ崎妙法」、「船形万灯籠」、「左大文字」、「鳥居形松明」の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)と呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされます。
10月 京都の秋の祭の中でも最も早いお祭北野天満宮 ずいき祭(瑞饋祭)は里芋の茎である「芋苗英(いもずいき)」で御神輿の屋根を葺くことからきている。このほか御輿の各所が穀物や蔬菜・湯葉・麩などの乾物類で装飾され、新穀で毎年異なった「人物花鳥獣類」も飾りつけられます。
御香宮 神幸祭は「伏見祭」といわれる伏見区の大祭です。お迎え提灯として、各町内より趣向を凝らした室町時代の風流傘の伝統を伝える「花傘」が神社に参拝する「花傘総参宮」が有名です。祭の中心は神輿渡御で、今は担がれていませんが徳川家康の孫娘、千姫の初誕生祝いに奉納された「千姫神輿」も公開されます。この祭の間、境内には百数十軒の露店が並び昼夜を問わず賑わいます。
左京区の由岐神社で行われる鞍馬の火祭の青年たちが燃えさかる大松明を担いで「サイレイ、サイリョウ」を繰り返して囃しながら集落を練り歩く様子や、「神輿落とし」と称する神輿が石段を駆け下りる姿が炎に浮かび上がる様は壮観で、人気のある祭りです。
11月 神泉苑に伝わる神泉苑狂言はもとは壬生狂言から分化したものですが、今は神泉苑狂言として続けられています。内容や形態も壬生狂言とほぼ同じで、鰐口、笛、太鼓の囃子に合わせた、念仏の妙理と勧善懲悪、因果応報の道理をわかりやすく、身振り手まねで表現する無言劇で、演目は30番あります。
大晦日の日に行われるをけら詣りとは、京都祇園の八坂神社に参詣して境内にある「をけら灯籠」から吉兆縄に「をけら火」を移し、火が消えないように縄を短く持ってくるくる回しながら帰ります。 この新しいをけら火で、雑煮を煮ると、疫病にかからぬ効果があるといわれています。



京都府の花はしだれ桜
京都府の鳥はオオミズナギドリ
京都府の木は北山杉